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更新日:2015年9月19日

校区紹介

学校長挨拶でもご紹介してますとおり、本校区は、錦江湾岸に沿った国道220号線の両脇に広がり、南北に37kmにわたって延びる垂水市の南部に位置しています。

新城地区公民館を中心とした各種団体の活動も活発です。ここでは、本校区についてご紹介いたします。

参考文献/ふるさと新城の文化財(新城地区公民館発行)

新城鉄道公園

子どもたちも遊ぶ機会もある公園です。春先には桜が咲き、地域の方々の憩の場となっています。

この公園は、旧国鉄大隅線が昭和62年に廃止され、新城駅跡地に建設された公園です。

新城鉄道公園

新城の海

新城校区は鹿児島の母なる海「錦江湾」が目の前に広がっています。

近年では、「錦江湾シーカヤック大会in垂水」なども開催されています。

 

シーカヤック1

シーカヤック2

 

宮脇公園

新城校区の中心を走る国道220号線。

そのすぐ横には錦江湾を一望できる宮脇公園があり、住民の方々が散歩をしたり、休憩など憩の場となっています。

 

宮脇公園1

宮脇公園2

大浜鎌ん手踊り

現在の「大浜鎌ん手踊り」は約150年の伝統をもつものです。

揃いの衣装に鉢巻、色とりどりのたすきに身を固め、手甲、ケハンもりりしく、鎌となぎなたの4人一組で踊る勇壮活発な踊りです。

鎌ん手踊りの由来

安永8年(1779)桜島が大爆発した被害で、農作物は降灰のため収穫が皆無となり、農民は生活苦に悩まされました。

当時の領主末川久備公は貯蔵米を放出し、農民の士気を鼓舞するため民芸大会を開催しました。

鎌ん手踊りは大浜、感王子から発表され、村人全員が参加しました。

民芸大会は盛大に聞かれ、以来祭りのたびに氏神などに奉納されました。

大浜鎌ん手踊り

新城様の墓

新城様は、薩摩藩第16代の太守島津義久の二女で、垂水島津家第3代島津彰久に入室しました。

新城様は良妻賢母の誉れ高く、村民からも婦徳の鏡と尊敬されていました。

新城様の墓1

新城様墓2

落花生の伝来地

新城大浜の田中良八は、文政六年(1823)に生まれ、明治35年82歳で病没しました。

明治12年(1879)、良八が山川に旅行した際、宿屋で茶菓子として今まで見たことのない豆を出されたので、「これは珍しい豆である。芳しく味もまた別段だ。何と言う豆ですか。何処から求められたものですか。」と宿屋の主人に尋ねたところ、「これは琉球にできる豆であり、名前は地豆と言います。彼の地方では、一般の農家の稲作代わりにこの豆を作るそうです。これは台風にあっても害を受けず、煮ても妙っても格別な風味があります。元気も出るし、またこれから採った油で揚げものをすると美味しいです。」と聞かされました。

そこで良八は、「島で出来る豆なら、新城で出来ないはずはないだろう。」と思い、主人に是非とも願って、十粒ほど種用として譲り受けました。

帰郷して、四月に自分の畑に蒔いたところ、発育がとても良く、種ー粒から百粒取れたので、取れた豆を神仏に供えて感謝し、全ての豆を来年の種用として保存しました。

翌明治13年、およそ一畝歩に種を蒔いて入念に手入れして育てたところ、四斗ばかりの収穫があったので、落花生が新城でも良く出来るという自信を得ました。

次の年には一反歩の畑に広げ、四斗入りで12俵も収穫できました。

この豆は鹿児島市場で大変な評判を得ました。

明治15年、花岡の安藤善喜は良八から豆を譲り受け、花岡での栽培を始めました。

これをきっかけとして、花岡での落花生栽培は盛んになっていきます。

良八は豆の販売に明るい目途がついたので、新城戸長猪八重平に栽培の有益なことを進言したところ、重平も共鳴し協力と援助を約束しました。

その後、良八は本格的に落花生の普及栽培にのりだしていきます。


落花生の伝来地

松尾城

錦江湾を見下ろす景勝の地にあります。

応永十九年(1412)本城城主伊地知季豊は、新城地頭肥後氏を攻め新城を領有しました。

この年、季豊は松尾城を築き、以降松尾城は伊地知氏の重要な山城として使用されます。

元亀二年(1571)伊地知氏ーが島津義久と敵対しましたが、天正二年(1574)早.牛根城の合戦に敗れ、松尾城など5城を差出し降伏しました。

義久は鎌田出雲守政近在地頭として松尾城に居住させ、新城を支配させました。

城の最高所は標高100mで、西に進むにつれて低くなる形式です。

明治2年(1869)新城島津家領主久治は、政権在奉還し、領地も返還し、武士による政治は終わりました。

仮屋には新城常備隊がおかれ、中村平左衛門が治めることになりました。

明治22年(1889)、市町村制度が施行され、新城役場を大浜上集落に新築したので、松尾は末川家の民家屋敷となりました。

松尾城

滝の脇公園~ガラッパ公園~

磨崖仏滝は古くからガラッパ棲息地として言い伝えられてきました。

この滝壷は子ども達の水泳の場として親しまれていましたが、ガラツハに水泳中引き込まれて水死するものも多く、そのため古代においては人身御供も行われていたと伝えられています。

そこで、源昌寺の住職は滝壷の脇の岩に泳ぎながら金剛界大日如来を表す究字を刻み、「この字が消えるまでは悪践をしてはならぬ」と言い渡しました。

ガラッパは懸命に字を消そうと岩を撫でまわしましたが、消えるどころかますます鮮やかになるばかりで観念したガラッパは悪鹿児をやめ仏門に帰依したと言われています。

最近まで、春の彼岸のころのおぼろ月夜の川にガラッパの鳴き声が聞こえたとかガラッパは相撲が好きで時々陸に上がって人聞に相撲を挑んだとかいう話が聞かれていました。

ガラッパに相撲を挑まれたときは、まずガラッパの頭の皿の水をこぼすと無力になると言われています。

また、天気の良い日は、岩陰でガラッパの甲羅干しの姿が見られたなどと伝えられています。この滝の上には鬼橋という石橋があり、周辺は岩菜(岩たばこ)の群生地でもあります。

水田整備事業により滝壷周辺が取水源として整備された際、これを機会にガラッパ像を建設し、ガラッパ伝説老後世・に残そうと郷土史研究会で検討し、市長に申し入れたところ、「活性化のため歴史を残しましょう。」と資金を戴き、実現の運びとなりました。

ガラッパ公園


陸軍所の水

昔、新城地区は水がとても不自由な村でした。

ある日、貧しい身なりの僧が通りかかり、村宇人たちが水に困っている様子を見かね、祈りを込めて砂浜に杖をつき刺すと、そこからこんこんと水が湧き出てきました。

その後、どんな日照りが続いても絶えることはなく、村人たちは、貧しい身なりの僧は弘法大使に違いないと話し、その後は大使の杖つき井戸と呼ぶようになりました。

明治維新後、現在の新城小学校に陸軍訓練所が置かれ、井戸も整備され、以来陸軍所の水と呼ばれるようになり、学童たちの喉の渇きを癒していました。

陸軍所の水1

陸軍所の水2

 

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