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更新日:2020年5月23日

垂水島津家墓所

垂水島津家墓所

垂水島津家は島津宗家15代・貴久(たかひさ)の次弟・忠将(ただまさ)を元祖とする家柄です。慶長4年(1599)、垂水島津家2代・以久(ゆきひさ)が垂水領主となって以降、以来明治維新まで16代・約300年にわたり垂水を統治しました。

垂水島津家墓所は、垂水島津家の菩提寺であった心翁寺(しんおうじ)の一部で、4代・久信(ひさのぶ)以降の歴代領主とその一族・忠臣の墓碑等石造物が多数存在します。

垂水島津家墓所の特徴

垂水島津家墓所は、垂水島津家の菩提寺(ぼだいじ)であった心翁寺(しんおうじ/曹洞宗)の一画に位置する墓所です。

  • 所在地:垂水市田神字上ノ平添328-2
  • 面積:1,741平方メートル

 

心翁寺

「三国名勝図会」の心翁寺

4代・久信(ひさのぶ)から16代・貴暢(たかみち)までの墓碑がある

現在垂水島津家墓所には、佐土原藩主となった2代・以久(ゆきひさ)の墓碑を除く、全ての歴代当主の墓碑がありますが、もともと全ての当主の墓碑があった訳ではありませんでした。

初代・忠将(ただまさ)と3代彰久(てるひさ)の墓碑は、国分清水の楞厳寺(りょうごんじ)にありましたが、第二次世界大戦の際の空襲により焼失してしまいました。現在は16代・貴暢(たかみち)の墓碑に一緒に祀(まつ)られています。

4代・久信(ひさのぶ)の墓碑は、もともと鹿屋の安養寺(あんようじ)にありましたが、昭和46年(1971)に垂水に移されました。

つまり、元来は5代・久敏(ひさとし)以降の当主の墓地があったことになります。

夫婦の墓碑が並立している

6代・忠紀(ただのり)以降、当主夫婦の墓は一つの基壇の上に並立して設置されるようになります。正面から向かって右側に当主墓碑、左側に正室墓碑が置かれ、当主墓碑の方が夫人墓碑よりも高く作られます。

いずれの墓碑も宝篋印塔(ほうきょういんとう)と呼ばれる型式をしており、7代・久治(ひさはる)夫婦墓以降、当主夫婦墓は鹿児島市で取れる花尾石(はなおいし)という石材を用いられるようになります。

なお、明治時代になると墓碑の形状や石材が変化します。

墓碑の文様について

6代忠紀(ただのり)以降、墓碑の文様も変化していきます(隅飾の大型化・二孤中央の茨表現、相輪の伏鉢・笠の軒に見られる花文、基礎の蓮華座等)。

7代・久治(ひさはる)以降になると、基礎下の台石の文様のモチーフとして、狛犬(こまいぬ)が見られるようになります。これらの文様も垂水島津家墓所独特のものです。

六面地蔵塔(ろくめんじぞうとう)

当主または当主夫人へ供えられた供養塔で、龕部(がんぶ)に地蔵が彫り込まれています。中には高さ3mを越す巨大なものもあります。建立当初は、金粉や色が塗られ、現在よりも豪華な様子を呈していたと考えられています。

六面地蔵塔が多数存在することも垂水島津家墓所の特徴です。

 

六面地蔵塔

6代・忠紀に供えられた六面地蔵塔

5代・久敏(ひさとし)墓碑

現在、5代久敏墓碑だけが離れたところにあります。平成28年度から行われた発掘調査の結果、6代忠紀(ただのり)墓碑の建立から、本格的な垂水島津家墓所の造営が始まったため、5代久敏(ひさとし)の墓碑だけが離れて存在していることが分かりました。

これは、6代忠紀(ただのり)が5代久敏(ひさとし)の実子ではなく宗家18代・家久(いえひさ)の七男であること、島津宗家墓所においても初代薩摩藩主となった家久(いえひさ)を区切りとして近世当主墓碑が確立されたことと関係があると考えられます。

文化財について

文化財は、先人の足跡と功績を、現在に生きる我々と後世の人々へ伝える大変貴重な資料と言えますが、一口に文化財と言ってもいろいろな種類に分けられます。

市町村指定文化財

各自治体に所在する文化財のうち、特に貴重なものについては市町村指定文化財として指定されます。

垂水市指定文化財

  • 牛根麓稲荷神社の埋没鳥居
  • 近世文学書類
  • おろごめろなど

県指定文化財

鹿児島県全体の中で特に貴重なものついては、県指定文化財として指定されています。

垂水市の県指定文化財

  • 勝軍地蔵
  • 柊原(くぬきばる)貝塚出土品
  • お長屋

国指定文化財

国全体の中で特に貴重なものについては、国指定文化財として指定されます。

国指定史跡「薩摩藩主島津家墓所」

本市にはこれまで該当する文化財はありませんでしたが、平成21年(2009)、文化庁文化財部記念物課は、島津家宗家墓所のほか、一門家墓所、1万石以上の家臣墓所を1つのまとまりとし、近世大名家墓所としての国史跡化について働きかけを行いました。

これを受けて鹿児島県教育庁文化財課は、宗家および一門家、1万石以上の家臣墓所が所在する鹿児島市(島津家宗家墓所・福昌寺跡)、姶良市(越前(重富)島津家墓所・紹隆寺跡、加治木島津家墓所・能仁寺跡・長年寺跡)、指宿市(和泉(今和泉)島津家墓所・光台寺跡)、垂水市(垂水島津家墓所・心翁寺跡)、さつま町(宮之城島津家墓所・宗功寺跡)に対し調査を打診しました。

これを受け、平成23年度(2011)に鹿児島市が調査に着手したのを皮切りに、それぞれの市町で国指定に向けた調査が開始されました。

垂水市では、平成28年度(2016)から30年度(2018)まで3か年をかけ調査を実施しました。

その結果、4市1町が所有する島津家墓所が、令和2年(2020)国指定史跡「薩摩藩主島津家墓所」として指定されることになりました。

垂水島津家墓所はこの「薩摩藩主島津家墓所」を構成する墓所の1つであり、垂水市では初めての国指定史跡となります。

宗家墓所および一門家墓所

江戸時代、薩摩藩は薩摩国・大隅国・日向国諸県郡の二国一郡と琉球国を領する、72万8700石余の石高でした。領地経営の面では、琉球国をのぞく領内を110あまりの外城(とじょう)と呼ばれる行政区画に分けていました。また、外城には藩直轄の地頭所と、藩主親族・有力家臣が支配する私領があり、私領主を務める家臣団一族の中に一門家(いちもんけ)があります。

一門家(いちもんけ)は、1737年から1744年にかけ、宗家21代(4代藩主)吉貴(よしたか)・22代(5代藩主)継豊(つぐとよ)父子によって定められました。家臣団最上位の家格で、越前(重富)家、加治木家、垂水家、和泉(今和泉)家の四家がこれにあたり、いずれも1万石以上を領していました。徳川の御三家に類するもので、藩主に後継がいない場合、藩主を出すことができたとされています。

一門家墓所

墓所 領地 墓所造営地
宗家墓所 鹿児島郡鹿児島城下 福昌寺(ふくしょうじ)
越前(重富)家墓所 大隅国姶羅郡重富外城 紹隆寺(しょうりゅうじ)
加治木家墓所 大隅国姶羅郡加治木外城

能仁寺(のうにんじ)

長年寺(ちょうねんじ)
和泉家墓所 薩摩国揖宿郡今和泉外城 光台寺(こうだいじ)
垂水家墓所 大隅国大隅郡垂水外城 心翁寺(しんのうじ)

島津氏

建久8年(1197)、島津宗家初代・忠久(ただひさ)は薩摩・大隅国の守護職に補任され、翌建久9年(1198)頃、管轄する荘園である島津荘から名をとり、島津氏を名乗るようになります。

島津氏は当初鎌倉に在住し、現地の政務は代官に任せていましたが、蒙古襲来を契機に九州へ下向します。宗家4代・忠宗(ただむね)は蒙古襲来の後薩摩へ下向します。

暦応4年/興国2年(1341)、北朝方であった宗家5代・貞久(さだひさ)は南朝方の居城・東福寺城を攻め落とし、宗家6代・氏久(うじひさ)がこの城の守りにあたります。

このころから、鹿児島が島津氏の拠点となっていきます。

至徳年間(1384~1387)、宗家7代・元久(もとひさ)は、東福寺城が手狭になったため、清水城を築き、以降約150年間、ここが島津宗家の拠点となります。

このように長きに渡り薩摩を治めてきた島津氏でしたが、その体制は決して盤石なものではありませんでした。大隅半島には肝付氏や祢寝(ねじめ)氏、大隅北部には蒲生氏、薩摩半島には菱刈氏、日向には伊藤氏など南九州にはもともと多くの強力な豪族がいました。

また、島津氏のあとに相模国(神奈川県)からきた渋谷氏も強力で、入来、東郷、高城(たかじょう)などの分家ができ、薩摩に置いて一大勢力を築いていました。

さらに、宗家と有力分家との対立もありました。宗家14代・勝久(かつひさ)の頃、薩州島津氏(出水)の5代目当主島津実久(さねひさ)が力をつけてきたため、実久(さねひさ)におされた勝久(かつひさ)は、伊作(いざく)家出身の島津忠良(ただよし)を頼ります。忠良(ただよし)は勝久(かつひさ)側につき、息子貴久(たかひさ)を勝久の養子とします。

しかし、後に勝久(かつひさ)が貴久(たかひさ)との養子縁組を解消しようとしたため、家督争いは3つ巴の様相を呈します。一時は薩州家が有力だったものの、最終的に貴久(たかひさ)が家督を継ぎ15代となります。

天文19年(1550)、貴久が内城を築城し、移転します。その後約50年間、内城が島津氏の居城となりました。

内城は平地に築かれた平城でしたが、防衛機能の問題から、宗家18代(初代藩主)家久(いえひさ)は慶長11年(1606)、鶴丸城へと移ります。鶴丸城周辺には城下町が整備され、藩政期を通じて島津宗家の拠点としての機能を維持することになります。

島津雨と狐

島津氏の祖・忠久(ただひさ)の母、丹後局(たんごのつぼね)には以下のような伝説があります。

丹後局(たんごのつぼね)は源頼朝の寵愛(ちょうあい)を受け、やがて子どもを身ごもります。これを知った頼朝の正室、北条政子が大変嫉妬したため、丹後局は鎌倉を逃れました。

ところが、摂津国(現大阪府)住吉大社までたどり着いたところで急に産気づいてします。

その日は雨の降る夜でした。迫りくる追手におびえながら、雨の中困り果てていると、狐が現れて明かりを灯します。この狐火に照らされて、丹後局は無事息子を産むことができました。

この赤ん坊が後の島津の祖・忠久(ただひさ)という伝説です。この出来事にちなみ、島津家では雨を「島津雨」と呼び、おめでたいことが起こる前触れとしていました。また、狐を使いとする稲荷神社も信仰していました。

垂水島津家

垂水島津家は、伊作家10代(相州家3代)忠良(ただよし)次男、宗家15代貴久(たかひさ)の次弟として生まれた忠将(ただまさ)を祖とする家柄です。

明治維新後、一六代貴暢(たかみち)まで続きました。

初代・忠将(ただまさ)

忠将(ただまさ)は父・忠良(ただよし)や兄・貴久(たかひさ)に従い、伊作島津の基礎を固め、また、渋谷氏や肝付氏との抗争において大いに戦功を上げました。

永禄四年(1561)、肝付氏に奪われた福山廻城を奪回するため自ら出陣、討ち死にしました。

垂水島津家初代忠将の死

永禄4年(1561)、肝付氏に奪われた福山廻城を奪還するべく、垂水島津家初代・忠将(ただまさ)は廻城に攻め込みます。

このとき兵は敷根、浜之市周辺の防御にあたらせため、本陣は少数となっていました。

歴戦の勇者である忠将(ただまさ)は、家老の町田忠林が必死にいさめるのも聞かず、自ら兵を率いて敵陣に攻め入ります。

しかし、暗闇の中、忠将(ただまさ)が乗る月毛の駒(淡い黄白色の毛を持つ名馬)が格好の標的となり、多勢に取り囲まれ、遂に命を落としたのでした。

島津忠良といろは歌

島津忠良(ただよし)は島津氏の分家伊作家の出身で、日新公(じっしんこう)の号で知られています。

忠良(ただよし)は島津氏発展の基礎を作り、また、長男貴久(たかひさ)が後の宗家15代となったことから、島津中興の祖と呼ばれます。

その忠良が人間として行うべき道を教えたのが

  • いにしへの道を聞きてもとなえてもわがおこないにせずはくいなし
    (むかしの人の立派な教えをいくら聞き、口でいってみたところで、みずから実行しなければ何の意味も無い)

で始まる「いろは歌」です。

平成30年には、忠良(ただよし)の没後450年を記念して「三州対抗『日新公いろは歌』かるた大会が開催されました。垂水市からは垂水小学校の児童3名が参加、優秀賞を受賞しました。

2代・以久(ゆきひさ)

以久(ゆきひさ)は忠将(ただまさ)の長男です。

島津の三州統一に尽力し、豊後の大友宗麟や肥前の龍造寺隆信、筑前の黒田孝高ら名だたる戦国武将との戦いにも従軍しました。

文禄元年(1592)には豊臣秀吉の朝鮮出兵に従い朝鮮へ渡っています。

慶長4年(1599)、大隅垂水1万1687石を賜り、垂水城(元垂水)へ移ります。

慶長8年(1603)、以久(ゆきひさ)は佐土原3万石の領主となるよう命ぜられ、垂水を孫の久信(ひさのぶ)に譲りました。

3代・彰久(てるひさ)

彰久(てるひさ)は以久(ゆきひさ)の長男です。

文禄2年(1593)、秀吉の朝鮮出兵の命に従い朝鮮へりますが、文禄4年(1595)病に罹り巨済島で亡くなりました。

垂水島津家3代・彰久(てるひさ)と虎退治

文禄4(1595)年、垂水島津家三代彰久は豊臣秀吉の命により韓国の巨済島(きょさいとう)で虎狩りを行います。

彰久の家臣に安田次郎兵衛義次という人がいました。義次は虎を探し求め、1頭の虎と対峙します。猛然と襲いかかってくる虎に対し、義次は夢中で虎の口に刃を突き刺しました。

刃は虎の背を貫き、ついに虎は絶命しました。この報告を受けた秀吉は大いに喜び、感状を与えたと言われています。

安田家の子孫は、義次の功績をたたえ、毎年3月10日に虎祀りを行っていたと言われています。そのときは秀吉より賜った感状や島津義弘から与えられた刀が供えられたと言われています。

なお、義次が討ち取った虎の頭の骨は、現在黎明館で保存されています。

4代・久信(ひさのぶ)

久信(ひさのぶ)は彰久(てるひさ)の長男です。

慶長8年(1603)、2代・以久(ゆきひさ)が佐土原領主となったため、大隅を譲られました。

慶長16年(1611)、垂水城が手狭になったため林之城(現垂水小学校)を築城。以降、ここが明治維新まで垂水における政治の中心となります。

元和2年(1616)、家督を久敏(ひさとし)に譲り、鹿屋へ隠居しました。

林之城跡とお長屋

垂水島津家4代・久信(ひさのぶ)は、慶長16年(1611)、垂水城が手狭になったため現垂水小学校の場所に新しく城を築きます。

もともと山林原野だったところを切り開いて築城したため、林之城と呼ばれました。

その一部がお長屋です。門に連なる建造物で、多聞櫓(たもんやぐら)と呼ばれるものです。

経年により修復を受けていますが、建物の基礎部分である石垣や柱、梁等は建築当初の姿を伝える貴重な文化財です。

5代・久敏(ひさとし)

久敏(ひさとし)は久信(ひさのぶ)の長男です。

寛永元年(1624)年、江戸で瘴癘(しょうれい)に罹患。そのまま病没しました。

6代・忠紀(ただのり)

忠紀(ただのり)は宗家18代家久(いえひさ)の七男です。

5代・久敏(ひさとし)には男子が無かったため、宗家18代・家久(いえひさ)の三男・久貞(ひささだ)が一旦は垂水家の養子となりましたが、寛永11年(1634)、久貞(ひささだ)が都城領主北郷(ほんごう)氏の養子となったため、忠紀(ただのり)が垂水家の家督を継ぐことになります。

寛永15年(1638)、島原の乱鎮圧のため出兵しましたが、出水で待機中に帰陣の命を受け帰垂しています。

7代・久治(ひさはる)

久治(ひさはる)は忠紀(ただのり)の長男です。

正確な年代は不明ですが、久治の治世下に新田開発が行なわれたと考えられています。

これにより整備されたのがよめじょ川用水であり、現在も水之上地区に広がる水田を潤しています。

8代・忠直(ただなお)

忠直(ただなお)は宗家20代・綱貴(つなたか)の三男です。

久治(ひさはる)に跡継ぎがいなかったため、元禄二年(1689)年に久治(ひさはる)の養子となりました。

 

9代・貴儔(たかとも)

貴儔(たかとも)は宗家21代・吉貴(よしたか)の二男です。

公領となっていた土地等を旧領に復するよう幕府に願い出、1万8千石を領することが許されました。

宗家21代・吉貴(よしたか)の諱(いみな)から名を貴儔(たかとも)と改めましたが、このとき子孫に代々「貴」の諱(いみな)をつけることを願い出、許されたため、以降の垂水家当主は皆「貴」の諱(いみな)を用います。

元文3年(1738)、垂水家、重富家、加治木家が一門家と定められます。

延享元年(1744)に今和泉家が再興、これに加わわります。

現在の垂水の商店街の基礎を築いたのは貴儔(たかとも)と言われています。

10代・貴澄(たかすみ)

貴澄(たかすみ)は宗家第21代・吉貴公の五男です。

安永5年(1776)、藩校「造士館」に次ぐ郷校となる学問所「文行館(ぶんこうかん)」を創設します。当時の垂水の文学熱は県内でも一目置かれており、多くの和歌集や漢詩集らがこの時代に編纂されています。

安永8年(1779)、桜島が大噴火し、大勢の命が奪われました。その霊を弔うために、心翁寺の僧に海潟の浜で大供養を行わせ、石碑「櫻島焼亡塔(さくらじましょうぼうとう)」を松岳寺(しょうがくじ)に建立しました。

 

11代・貴品(たかしな)

貴品(たかしな)は日置城主島津佐衛門久寧の長男です。

文化7年(1810)、公儀天文方であった伊能忠敬(いのうただたか)が沿岸測量のため来垂しています。

12代・貴柄(たかもと)

貴柄は貴品の長男です。

天保4年(1833)亡くなりました。

13代・貴典(たかのり)

貴典は宗家21代・吉貴の二男です。

嘉永6年(1853)、大隅日向巡検で来垂した宗家28代・斉彬(なりあきら)を迎えています。

14代・貴敦(たかあつ)

貴敦は貴典の長男です。

天保11年(1840)、奥州八戸藩主の南部遠江守信順(なんぶとおみのかみのぶゆき、重豪の一四男)の娘、八百姫(やおひめ)を娶りました。

慶応4年(1868)から始まる戊辰戦争では、垂水から172名を派兵しています。

明治2年(1869)、土地を返上し、士族となりました。

明治10年(1877)の西南戦争には、垂水から610名が従軍しました。

お問い合わせ

垂水市教育委員会社会教育課文化スポーツ係

鹿児島県垂水市田神2750-1

電話番号:0994-32-7551

ファックス:0994-32-7554

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