トップ > 垂水島津家墓地

  垂水島津家墓地(垂水市指定文化財)
「垂水島津家18,000石」の歴史的背景と墓石の特徴
 

島津家家紋イメージ島津77万石を支える一門家(加治木・重富・垂水・今和泉)のひとつである垂水島津家は、初代忠将(ただまさ)から16代貴暢(たかみち)まで約250年間垂水を治めました。忠将の子2代以久(ゆきひさ)は慶長4年垂水に来て垂水城(別名荒崎城)に居城し、同8年佐土原3万石に移り、後は孫の久信に譲りました。3代彰久(てるひさ)は朝鮮出兵で病死し、その妻は本家義久の次女で”新城様”と言われました。4代久信は慶長16年、垂水城から林之城(現垂水小)へ移り、城下町(麓町)を形成します。また、寛永13年(1636)新城様は孫の久章( ひさあき)を初代に「新城島津家」を創建しました。

7代久治はよめじょ川疎水(そすい)工事に着手し、9代貴儔(たかとも)の時代に完成、享保5年には柊原村、野里村を合し、家禄18,000石となりました。また、垂水市の商店街が出来たのもこの頃です。

また、徳川将軍11代家斉の御台所、茂姫(廣大院(こうだいいん))の祖母は貴儔の長女都美(とみ=本家25代重豪(しげひで)の母)です。

藩政時代、垂水は学問が大変盛んで10代貴澄は安永5年、学問所「文行館(ぶんこうかん)」を創設しました。

14代貴敦(たかあつ)の正室、八百姫(やおひめ=於朝(おあさ))は重豪の13男の八戸藩、南部信順(なんぶのぶゆき)の娘ですが「篤姫」より前に徳川13代家定の嫁候補に上がった人です。15代貴徳は市内の各小学校長を務めています。16代貴暢(たかみち)は維新後男爵になりました。

垂水島津家は一門家として最上位の家臣として本家を支え、屋敷も鶴丸城に最も近い旧県庁(今の県民交流センター)の場所にありました。

   

垂水市教育委員会

 

 

墓地の特徴

 

所在地垂水市田神上ノ平添

(上犬之馬場)

 

1741u(上下段)

 

歴代領主や一族、大小100余の豪壮な墓碑が一堂に並び、歴史的に大変貴重な史跡です。

 

領主と正室の墓の並立は大変珍しい(他の島津墓所にはあまり見られない)。

 

墓碑は非常に精巧、宝篋印塔(ほうきょういんとう)が多い。

 

2代以久(ゆきひさ、後の佐土原初代藩主)を除く歴代領主の墓が一カ所にあります。

 

巨大な六地蔵塔(供養塔)が数多くあります。

 

墓所は菩提寺の心翁寺(曹洞宗)があった所です。 

 

「一門家」の墓で自治体所有は現在垂水市だけです。

ご希望があれば、文化財インストラクターが案内・説明をいたします。問合せ先 垂水市教育委員会 社会教育課 文化係 電話0994−32−7551
[写真]墓地(下段)1 [写真]墓地(下段)2
墓地(下段)
[写真]島津草子女子医学・文学碑(下段) [写真]墓地(下段)3
島津草子女子医学・文学碑(下段) 墓地(下段)
[写真]墓地(上段)1 [写真]巨大な六地蔵塔(下段)
墓地(上段) 巨大な六地蔵塔(下段)
 
「篤姫」と「八百姫」
 

徳川将軍に薩摩から2人が嫁いでいますが「篤姫」と11代将軍家斉の正室「茂姫(しげひめ)=廣大院(こうだいいん)」です。

家斉は子宝に恵まれ(53人は歴代将軍中トップ)、しかも長寿でした。

大奥は既に2名の奥方を亡くしている13代将軍家定の後妻を家斉夫妻にあやかり、島津一族からと考えます。

最初に話が来たのが島津本家25代重豪の13男で八戸藩南部信順の娘、八百姫(於朝)です。

茂姫の父も重豪ですので 八百姫は茂姫の姪に当たります。茂姫に血縁上近い八百姫は最有力候補 とされたのです。しかし八戸藩では将軍家への入室については将来への諸状を案じてか八百姫を垂水島津家14代貴敦(たかあつ)へ嫁がせます。結局、後の数名の候補達も決まらず今和泉家の於一(おかつ=篤姫)に落ち行き、その後の彼女は波乱の生涯は送ることになります。

八百姫は明治10年、西南の役の年に亡くなりました。

垂水市上犬之馬場の垂水島津家墓地内に貴敦公と八百姫は静かに眠っています。

 

[写真]「篤姫」と「八百姫」案内看板

[写真]八百姫の墓
 

垂水島津家14代貴敦公の正室となった八百姫の墓

資料と所在地
 

垂水島津墓地案内パンフレット


大きな地図で見る

 

  垂水市役所〒891-2192鹿児島県垂水市上町114番地電話:0994-32-1111(代表)  

プライバシーポリシー・免責事項・著作権・リンクサイトの利用

Copyright (C) City of TARUMIZU All Rights Reserved.