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垂水市の名称は垂水城(元垂水)の崖下に、岩の間から清水が滴々と垂れて溜水があり、この辺一帯の唯一の飲料水であったので有名となり、この地名が起こったといわれています。
初めて垂水の名が記録に現われるのは平安時代で
、保安元年(1120年)上総介舜清(かずさのすけしゅんせい)が宇佐から下大隅に下向して垂水城を築き、ここにいること3年、蒲生に去るとあります。
垂水島津家の元祖忠将は、薩隅日三州中興之賢太守貴久公の次弟にして、忠良入道日新公の二男であり慶長4年(1598年)に種子島から垂水へ移り垂水領主初代となりました。石高は1万7千石、領地は垂水の他、大崎、高山、大姶良、鹿屋、串良、宮崎の縄瀬などに及び、明治維新に至るまで
約250年間、垂水を治めました。垂水城の城下は狭く家臣の居住することができなかったので移転築城に着手、慶長16年(1611 年)に、林之城(現垂水小学校)に移転しています。
垂水島津家は、特に文教の振興に力をいれ、当時、文化面においては藩内随一と称されました。
その気風が明治維新以降も受け継がれ、明治、大正、昭和の初期にかけて各方面に多くの人材を排出しました。
新城は、垂水島津家の次男家が分立し、新城の領主となり、明治維新まで治めましたが、明治になり新城村となりました。牛根は江戸時代に藩の直轄地で地頭が任命されて治められ、明治維新後は牛根村となりました。
明治2年の版籍奉還により、地頭制が布かれ、垂水、牛根、垣吉、市成、百引、花岡、新城、桜島を一区域とし、初代地頭として高崎正風が任じられ、その役所は垂水に置かれました。
各郷には常備隊が設けられ
、軍事、行政を司りました。
その後、明治22年には市町村制に基づき、鹿児島県垂水村、大正13年に垂水町となり、以来、躍進を続けていましたが、昭和20年8月5日の戦火のため市街地の中心部、浜平及び柊原ほとんどか消失しました。翌21年に戦災復興事務所が設置され、現在の市街地形成のもととなる都市計画が進められました。
昭和30年に牛根村及び新城村と合併し、同33年10月1日に市制を施行、垂水市として第一歩を踏み出し現在に至っています。
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